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A君、まだ会うすぺな。 [旅の雑感]

昨日の日曜日、自宅にいたのでいつもの週末のように早朝に走ることができた。

 

自分で三社参りジョギングと名付けているコースだ。自宅からここの団地の少しゆるやかな坂を上り、そのあとは最初の神社までずっと下りだ。そこまでゆっくりのペースで40分くらい、下り坂の勢いに任せて少し早いペースで30分程度。昨日は足の調子もよく少し早いペースで走れた。先週は都内にずっと出張で、いつもの平日は走らず散歩程度のところを、都内のもの珍しさも手伝って何日か走っていたせいもあるのだろう。自宅を出たのが午前420分程度、その最初の神社に到着したのは450分少し前だった。

二番目の神社にお参りを済ませ、今朝は少し足を延ばしちょっと先にある三社にははいっていない4つ目の神社に行くことにしていたので、そちらに向けて走り出した。その4つ目の神社は前の職場に近い。その前の職場は宮城県の公所で敷地が広く、実はそこのグラウンドに、被災した学校(宮城県農業高等学校)が仮校舎を建てる予定で、どの程度建設が進んでいるか見てみようと思ったからだ。結局建設は始まったばかりのようで、まだ仮校舎を建てる基礎づくりの段階のようだった。

その神社に向かって走り始めてすぐ位に、電柱に貼ってあるお知らせの紙が目に入った。自分は宮城県名取市というところに住んでいるのだが、その名取市が主催する震災後百日目の合同供養の開催のお知らせだった。それを目にしてすぐにあっと悔やんだ。

今回の震災では私の高校時代の親友が亡くなっている。A君というが、ここ名取市の中でも甚大な、否壊滅的な被害を受けた閖上地区というところに住んでいた。震災当日、おそらく家族を心配してであろう自宅に車で向かった彼は、津波にのまれ帰らぬ人となってしまった。

高校時代に親友となった他の友人が、親の公務の転勤の関係でアパートに一人住まいをしていた。高校生が一人住まいをするのだから、仲間が集まらない方がおかしいであろう。ことあるごとに仲間がたむろして時間をつぶしていた。A君とも確かそこで出会ったと思う。そこに集まるのはバイク好きの仲間がほとんどであったが、A君は足が悪くバイクには乗っていなかった。

でも皆と気があったのであろう、A君の他の友達は少しすると来なくなったが、A君は結局我々の仲間となった。A君は列車の事故で両足の下の方が失われていた。そのため1学年すべって本当は学年下の我々と一緒になっていた。A君の元来のほのぼのとした優しさであろうか、A君もそのことは気にしないし、我々もまったく気にせず、「A君、A君と」とすっかり同じ立場であった。

高校を卒業して社会人になっても、我々の仲間は相変わらずことあるごとに集まり、よくツーリングに出かけた。A君はその際も車で我々と一緒に出掛け、時々ツーリングに加わる仲間の弟を同乗させたり、もちろん荷物を積んでくれたりしていた。北海道、東北各地、信州、等々、いい思い出ばかりである。しかし年を重ねるごとに、家族を持ち、子供を持ち、家を持つごとに、だんだんとツーリングに出かけることもなくなり、たまに皆で会うのは忘年会や新年会にかこつけての飲み会程度になってしまった。その中でも自分は仕事で海外に赴くことが多く、長い間海外に駐在したりして比較的仲間とも疎遠になっていったものである。ここ数年は個人的な難しい状況もあり、出ようと思えば出れるそのような忘年会や新年会の集まりもすっぽかすことが多かった。

311日の金曜日、午後245分過ぎ、自分は冒頭に述べた敷地の広い職場で働いていた。職場は6階建てのビルで、すぐさま外に全員避難となった。断続的に発生する長い地震の間、高層階のエクスパンションの部分が避けて隙間から向こう側が見えたり、玄関前にある防火水槽の水が、あとになって考えれば大津波の予兆のように、大きく波打って水がざぼんざぼんと水槽の外に飛び出すさまを見たり、そんな中で待機していたわけであるが、自分は何故か冷静にことを眺めているのが不思議に感じられたものであった。そんな状況の自分でも、他の職員が皆に聞こえるように音量をあげたワンセグ放送のニュースから、津波が最大で10mになるかも、と聞いたときは「これはまずい」と思ったものだ。しかし、その時もまだA君のことは考えたりはしていなかった。

震災後は水、ガス、電気の全てがとまり、しばらく生活に難儀した。水は辛うじて貯めたお風呂の水で当座を過ごし、それと幸いにも比較的早く復旧して、近隣の方に比べても事なきを得たと思う。ガスは灯油ストーブを調理および温水用熱源兼暖取りに使った。これも物置に買置きしていた灯油でさほど困ることはなかった。電気。明かりはランタン、蝋燭や懐中電灯でやりくりをしたが、情報の入手が出来なくて大分と不便を感じた。何とか乾電池をかき集め、ラジオをずっとつけっ放しにしてニュースなどを貪るように聞いていたものである。あの海岸で何百人の死体があがった、この海岸で何百人が、と聞こえてくる。尋常ではなかった。

翌日の土曜日、自分は幸いにも職場に災害時緊急出勤する必要はなかったため、団地のへりの見晴らしのよい、海岸線を一望できる場所に行ってみた。一目みて言葉を失った。後でA君の悲報を知ることになる閖上地区を含めて、海岸線がずたずたになっていた。方々で煙があがり、ここ東北の最大の貨物港である仙台新港では、方々に火の手と煙が、特にガスコンビナートではこの遠くから眺めてもその熱を感じられるような大きな炎が、まっくろい煙をものすごい勢いで空に吹き上げていた。海岸線の松林は、悪い虫歯でやられた下あごのようにほとんどがざっくりと削りとられ、残っている少しの松林や松の木がさもしい景観となっていた。海岸線にはまるで昔からあった沼や入り江のように海水が入り組み、お日様に照り返す水面の光が場違いにきれいに映ったりした。翌日の日曜日には、ガソリン節約のためにそれからもかなりに日数お世話になる、娘の小さな自転車を借りて、職場にも行ってみた。宮城県の公所であるため災害対応でほとんどの職員が出勤をしていた。少し丘の上に自転車を一生懸命こいで登っていき、南の方角に住む知人の近辺を双眼鏡で見ようとしてが、どこまでが海で、どこが浸水した場所なのか判然とせず、ただ帰ってきただけだった。

震災後何日してからであろうか、電気もやっと戻ってきた。確か、翌週の火曜日頃であったと思う。テレビの津波の映像を見たときの驚きは大変なものであった。また、その数日後には電話も使えるようになり、インターネット回線も復旧した。そこで始めたのが、知人からの年賀状をひっぱり出してきて、彼らがどこに住んでいて、そこが被災している可能性があるのかどうかということをGoogle Mapで調べ始めたことだ。この時までにはすでに、お互いの両親、親類および彼らの住居も大きな被災もせず、幸いにも事なきを得ていることは分かっていた。

この調べものをしていて分かったことが、A君の自宅が閖上地区のもっとも甚大、壊滅的な被害を受けていた地域にあったということである。なぜか自分は、A君の家は閖上地区でも大分と海から離れた場所にあると誤解をしていたのだが、これが分かった時でも、家族もどこかに避難して無事であろうし、A君は会社で仕事をしていたのだから命は大丈夫であろう、何か必要であれば他の友人と助けになろう、程度のことであった。

そんな中、木曜日の夜に同じく親友のO君から電話があった。K君と一緒にここ名取市の遺体安置所にいるという。瞬時に嫌な予感がしたが、その電話は、彼らが安置所に張り出された名簿にA君の名前が載っているのを見つけ、すでに遺体の確認も終わっていること、私にもA君に別れを言ってほしいというものであった。「なにすやっ!!」という驚きの言葉がまず最初だった。よく聞くと家族は全員無事であるが、なぜかA君が地震の直後に、会社から放免されこともあって、自宅に戻って被災してしまったということであった。すでに悲しみに打ち沈んでいるO君も、これを告げている間にまた涙声になっていた。

翌日の金曜日は職場に赴かなくてならなかったため、土曜日の朝早い時間にK君に付き添ってもらって安置所に行った。そこは使用しなくなったボーリング場を、他の手狭になった安置所を補完するために名取市が臨時に使っている場所であったが、一歩中に足を踏み入れると、ところ狭しと白い棺や無垢の棺がレーンの上をまたぐように安置されていた。まだ少し肌寒い季節でもあったが、中は冷房を十分にきかせてあり、それは遺体の腐敗を防ぐ処置であろうとすぐに分かった。心なしか、死臭であるとわかるような独特の匂いもあったと思う。K君はもうA君の棺の場所が分かっているので、私を一目散にそこに連れて行ってくれた。棺の窓をあけるとそこには間違いなくA君が眠っていた。A君の顔を見た瞬間、単にA君が穏やかに本当に眠っているようにしか見えなかった。飲み会の翌日に、あるいはツーリングに行って宿に泊まった翌日に布団に眠っているA君の寝顔を見ている、そんな感じがした。だが、A君が確かに棺に入っていること、そして彼の顔をよく見るにつけ、もう二度と目を覚まさないA君であることが、徐々に、やがて急激に理解できるにおよび、抑えきれない悲しみがものすごい勢いで湧き上がってきて、その場にしゃがみ込み慟哭してしまった。今までの人生で涙などあまり流したことがない自分から、とめどなく涙が次から次へとあふれ出し、何でだぁー、何でだぁー、何でだぁー、と意味もなくA君を見ながらつぶやいていた。

徐々に涙もおさまりK君からいろいろと話を聞けた。震災直後、A君の働く職場では、家族の安否確認への配慮も含めてであろう、社員がすぐに帰宅を許可されたこと、家族を心配したA君は恐らく車で一目散に自宅に向かったであろうこと。 だが、A君の奥さんは地震の直後、下の小学校6年の子供を学校から引き取り、一旦自宅に戻って上の中学校のお兄ちゃんを拾って、避難場所たる閖上中学校に向かっていたこと。結局、A君は家族とすれ違いになったようなのである。A君は自衛隊の捜索によって、仙台東部道路名取料金所の南東で17日の木曜日に発見された。乗っていた車は見つかっていないので、恐らく渋滞か何かで身動きが取れなくなり、車から出て避難しようとしたのではないか。足が不自由だったA君には大変だったであろうと思う。

安置所には自衛隊の人たちによって、棺が次から次に運び込まれていた。しんと静まりかえり冷え冷えとする空気の中、会場のそこここで故人を惜しむ人が立ち尽くし、棺にすがってむせび泣いている。外に出てみると、自衛隊のトラックが止まっており、そこには山のように棺が積まれていて、次々と自衛隊員の人たちによって会場に運び込まれてくる。検視官の話では、A君は痛みもほとんど感じずに亡くなったであろうということらしい。幸いなことに遺体の損傷はわずかなものであったようだが、確かに頭部にはうっすらと血がにじむ包帯がまるでベールのようにまかれていた。

遺体は当日にも名取市内のA君の実家に身を寄せる奥さんに引き取られ、そのA君の実家に運び込まれる予定となっていたが、結局その数日後に名取市内の葬儀社に移送された。その葬儀社も通常は葬儀会場に使われる一階、二階の全てのフロアーが遺体の安置場所に使われており、パイプ椅子を仮の台として、やはりところ狭しと棺が並べられていた。震災後すぐにニュースにもなったが、火葬設備の能力が追い付かず、一部ではすでに土葬も始まっていた。確かに、A君が移送された葬儀社でも死臭が鼻をつくようになってきており、窓は大きく開け放たれ、係りの人たちが一生懸命ドライアイスの交換に追われていた。A君は結局そこにしばらくの間とどまり、3月の末、28日に隣県の山形県山形市の斎場で火葬されることができた。11日の震災から17日目である。焼かれて骨となったA君を目にし、その変わった姿に涙したが、一方では「A君、いがったなぁー。やっとうっつぁ帰れるなぁー」とも思ったものである。

残されたA君の奥さんの実家は、やはり甚大な被害を受けた三陸海岸の南端近くの町であるが、その奥さんの実家も被災し、実はお母さんも失っていた。それでも二人の残された子供たちと気丈に頑張っていたが、A君の骨を納骨する際にはやはり泣き崩れてしまった。もっと、思いっきり泣いていいんだよと誰もが思ったと思う。

A君の葬儀件告別式は4月末24日に名取市内のお寺で執り行われ、会社や親戚の方などたくさんの列席者があった。その式ではO君が友人代表として弔辞を述べることになったが、A君に普通に語りかけるO君の弔辞には心を打たれた。

実はA君の遺体に会った翌日の日曜日の320日に自宅から閖上地区に自転車で行ってみた。被災した場所に近づくにつれ、田んぼにごろごろと転がる車が目に入り始め、「あー、あー、あー」と言葉にならない驚きを口にするしかなかった。閖上地区に入る頃には、一面が根こそぎ津波によって流され、大きな湖のようになった場所やそこここのがれきの山、基礎しか残っていない住宅地や商店街があった場所、かろうじて建物の形は残るが、がれきによってごちゃごちゃになった残骸が目に飛び込み、一体これは何なんだろうという感覚しか湧いてこなかった。漁港のあった場所から仙台市方面を眺めると、戦争によって空襲を受け跡形もなくなった町の姿もこうであろう、というような光景であった。山から吹き付ける風がとても強く、乾き始めた泥や砂利が吹き飛ばされる様子は、なんとも心すさむものであった。帰り際には捜索を続ける警察の方々によって新たな遺体が発見されたところも目撃した。

A君の告別式は四十九日の少し前であったが、震災直後に閖上地区に行ったときには出来なかった供花を、四十九日の日に閖上地区の被災地を見渡せる場所でさせてもらった。昨日ジョギングをして見かけた名取市の震災後百日目の合同供養の告知を見たときにあっと思ったのは、告別式の時点で決まっていなかったA君の墓所が決まったかどうか、すっかり確認を忘れていたことに気付いたからである。日頃からいろいろとみんなの面倒をみて、連絡係りを務めてくれているO君に早速電話をしなければならない。

A君が亡くなったあと、A君と頭の中で会話をすることが時々ある。昨日もこの告知を見て、墓所の確認を忘れていたことに気付いたあと、頭の中でA君がこう言ってくれた:

E(私の名前)、いいがら、気にすんなって。

うだってA君、悪いべや。

うだって、あんだだっていづがはこっちゃ来んだど。おれはちょごっとはえぐ来ただけだ。

A君、いでぐながったのが?

気付いだら、もうこっちゃきったからあっというまだった。すこしもいでぐはながったよ。

うでも、さびしいっちゃ?

いづでも見でどきに見れっから大丈夫だ。あんだだじがとぎどぎ思い出してければ、そんでいいんだ。やろっこだずもこっからすっかり見えっからさ。

うで、お墓Oさ聞いでみで、おまいりっすからさ。

ひまなとぎでいいがらな。

うで、まず。

うで。

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