SSブログ

おさんこ茶屋の五色だんごで供養 [滞在生活]

2016年5月22日の日曜日の午前6時半少し前、自宅の居間のテーブルの定位置でPCに向かっているが左側のブラインドの隙間から射し込む朝日をうまく避けないと眩しい。それくらい太陽の強い日差しの晴れの朝だ。 

 

昨日は時々雨の降る生憎の一日で近場の山の中の公園でキャンプをしている息子とその仲間の総勢5人にも残念だったろうが夜半には天気も回復してきたから持たせた焚き木(剪定した庭木の軒下に放置して乾燥した小枝の束)でキャンプファイアーも出来ただろうか。まぁ~いずれ楽しいキャンプとなったことと思う。テントの中でまだ寝ているか、あるいは持参しゃ竿で朝からバス釣りを始めているか。今日はお昼前の11時に車でピックアップに行く予定だ。

昨日の土曜日は朝からその息子たちのキャンプ道具を物置から出して準備とかするので出勤する妻がまだ家にいる7時半程度には起床した。妻を見送ると早速に物置からキャンプ用品を運び出して車に詰め込み、ランタンのマントルの状態を見て2個あるうちの1個を付け替えて炭化させ使える状態にしてあげ、ご飯を食べたり、洗濯物したり、部屋の掃除をしたり、そんな事をやっている間に当の本人が9時半過ぎにやっと起き出してきてバタバタとご飯を食べたり何だりした後にキャンプ用品満載のノア号で彼の友達が到着している南仙台駅に待ち合わせに少し遅れた9時45分程度に到着、その友達面々4人を3人掛けシートの、さらには床にクーラーボックスとか置いてある狭い車内の中列に押し込み、ダイシンで調理ガスコンロ用のボンベを買ってから生協に赴き、半ば自分の采配で焼きそば・焼き肉のメインディッシュやらジュースやら食パンやら小さいサラダ油やら焼き肉のタレやら何やらを一人1,000円の予算にほぼぴったしにあった総額で買い込む事に成功し(息子がバスケットに商品を取るごとにスマホで積算していたので)、またまた那智が丘に戻って(途中、自宅に寄って生協でもらい忘れた割り箸やら包丁・まな板その他の調理器具を積んだが)その奥の山の中の公園に赴き、何とか11時半少し過ぎには高3男子5名およびキャンプ用品をノア号から降ろすことが出来た。

その後は一旦家に戻ってガソリンスタンドの割引券、キャンプの食料調達の建替えで現金を使ってしまったので現金などを取ってから、母親の四十九日の線香上げに七ヶ浜に一人向かった。那智が丘を下ってガソリンスタンドでガソリンを入れて走りだした直後から車内のたまスピで聞いていた懐メロ歌謡曲に何やらノイズが入っているような。良く良く耳を澄ますと車からの異音であった。車を前方に走り出し始めると聞こえてくる異音でどうもブレーキを擦っているような音がする。多少の心配はあったが何故か気がせいてそのまま七ヶ浜の墓参りに向かうこととする。

七ヶ浜のお墓まで車の異音が消えることはなかったが悪化することもなく無事に到着、墓前に線香を上げさせてもらい「無事に四十九日が過ぎてお疲れ様でした、平穏に成仏してください」と親不孝のバッツ(浜の方言?で一番下の子供の意味)息子だが手を合させてもらった。

その後は自分の立てた計画通りに塩竈の母親実家の菩提寺へと向かった。多少、と言うかかなりの心配と不安、そして恥ずかしさもあったがお寺の立派な事務所の受付にピンポンとお邪魔すると高齢のお寺の事務の方が親切にお話しを聞いてくれて端末を調べたり何だりとしてくれて探す墓所が間違いなく檀家であり当主の名前も一致はしたが古いお墓でもあり苑内墓所がすぐには分からない。「それでは」と住職さんに電話で聞いて頂いたところ住職の奥様が良く覚えていらっしゃると言うことで高齢でお足が多少不自由な状態でもあるにも関わらず墓所までご案内をして頂いた。道々話しをすると自分の母親の事もご記憶にあるようで「そう言えば似ていらっしゃる」とも言って頂いた。母親実家の方々もかなりご存知のようでいらした。

さて、母方実家の墓所でも線香を上げさせていただき積年の不幸を詫びながら母親も鬼籍に入ったことをご報告させてもらった。その墓には自分の祖母は無論、その旧家を継いだ母親の実姉(おばさん)、婿養子に入ったおじさん(「XXくん、ご飯いっぱいくわいんど」といつもガラガラと大声で陽気に言ってくれたXXXさん)、そして小さい頃に良く遊んでもらったいとこ… みんなと母親もあの世で再会していることだろう…などと科学の発達した現代ではあまり常人も考えない、現実にはあり得ないことを、自分で自分の行動に得心するために、あるいは皆の人の心の中にあるという仏の世界でその再会が実現することを祈って、Again 親不孝の、Further 親戚不幸の自分は思うのでありました。

ところで旧家の墓所なので墓石にはかなりの名前が刻まれている。どうも大戦前の昭和9年に若くして亡くなった(その墓石の記名を見て始めて祖父の名前も早逝であった事も分かったのだけど)お爺さんがその代でお墓を新しくしたようだが、それを見ると古くは寛政元年(1789年?多分)生まれの祖先まで刻まれていたのにはびっくりとしたものだ。すぐ脇にはその寛政元年に亡くなった祖先の名前で三代目某という墓石もあったから更にずっと先に遡るかもしれぬが。いずれ全てメモしていたら陽もとっぷりと暮れてしまうだろうから、不敬とは思いながらも、またすぐ脇の塩釜一小前を歩く多くの人の目を気にしながらスマホでパチリパチリとさせていただき、今朝方に書き起し・解読などしたりした。言ってみれば家系だろうか。いつか、母方実家や鹽竈の歴史などに造詣のある姉にそれを見せながらいろいろと聞いてみたいものであるが。

その帰りにはすぐ下の本町通りの母方実家の斜め向かいの「おさんこ茶屋」で持ち帰って家族で食べて供養をしてもらおうと団子を買った。売り切れになっていたら「梅花堂」か「榮太樓」でお菓子とも思ったけど午後の結構入った時間に関わらずまだ団子も残っていた。お店の中では小さい時に何回か会ったこともあろうか老齢の先代のご夫婦と今の代の若夫婦の方々が一緒に働いておられた。五色だんごの詰め合わせを二つ、一つはキャンプしている息子と友人たちに、一つはもちろん自宅用に買って夜に食べましたが妻と娘にも大変に好評でした。五色は:ずんだ、あんこ、くるみ、ごま、そして醤油です。

その持ち帰りの団子のお支払いをしている時に自分も結構空腹な事に気が付いて、ここで食べようか?とも思ったが、いずれ夜に家族で食べるのだから、それでは供養にまた「来々軒」の中華そばと思い直して(金富士がやはり閉店中だったのは菩提寺に行く途中で確認していたので)、来々軒に車で向かったが残念ながら閉店中。それではと、もう一つの母親と一緒に食べた事を覚えている新富町の45号線沿い「東華」に向かった。お店に入って中華そば(並)とライスを頼むとすぐに店主さんが暖簾をしまいはじめギリセーフで何とか食べれてラッキーだったかなと。ここの向かいには昔「トーコーチェーン」デパートが有り母親に連れられて何回か来たものだ。あるいはすぐ近く市役所向かいの「渡辺眼科」に何回か連れて来られた時に一緒に食べたか…
 
SM_2016-05-21DSC_0014.jpg
 
以上、
 

 

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。